
飛鳥時代の主役・蘇我氏
飛鳥時代の主役の一族と言えば蘇我氏だろう。300年生きたと伝わる武内宿祢を祖先とした一族は、仏教とともに勢力を伸ばしていき、最盛期には皇位を左右するほどの権力を手にしていた。逆らえる者がいない蘇我氏全盛期の蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子は、天皇にしか許されていない行為を数多く行った。
・八佾(ヤツラ)の舞 64人で行う方形の群舞
・蝦夷の墓を大陵(オオミササギ)、入鹿の墓を小陵(コミササギ)と言った(陵は皇族の墓に使う名称)
・蝦夷の家を上の宮門(ミカド)、入鹿の家を谷の宮門(ハザマのミカド)と言った
・子を王子(ミコ)と言った
他にも圧倒的な権力を誇るかのような行為は数々あるが、その中で最も反感を買ったものは聖徳太子の息子・山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)を襲ったことだろう。
蘇我と聖徳太子
聖徳太子とかかわりが深かったのは蝦夷の父で入鹿の祖父に当たる蘇我馬子だ。
聖徳太子と蘇我馬子は仏教に反対する当時最大の豪族である物部守屋を滅ぼし(丁末の乱)、蘇我氏繁栄の礎を築いた。
いつまでも続くかと思われた両者・両一族の蜜月は唐突に終わりを告げた。
聖徳太子が亡くなり、馬子も亡くなると、跡を継いだのが山背大兄王と蝦夷だが二人の仲は上手くはいかなかったようだ。
聖徳太子・馬子と亡くなり推古天皇も亡くなると皇位継承争いが起こり、山背大兄王は蝦夷に皇位に就けるように協力を頼んだが蝦夷は拒んだ。
結局、皇位は田村皇子に渡り、舒明天皇として即位した。続いての天皇は舒明天皇の皇后だった斉明天皇と、山背大兄王は無視をされ続けていた。
キングメーカーの地位を蝦夷から継いだ入鹿は、山背大兄王の存在が邪魔になり軍勢を山背大兄王の邸宅に送り込んだ。山背大兄王は逃げることに成功したが、すぐに一族全員で自害をしている。
偉大なる聖徳太子の一族を滅ぼしたことが、蘇我氏本宗家の滅亡へと繋がっていく。
入鹿の最後
蝦夷と入鹿の専横を止めるために立ち上がったのが皇族の中大兄皇子と中臣鎌足だった。二人は話し合いを重ね、入鹿を天皇の前で殺すという暴挙に出た。
入鹿の死体は蝦夷のもとへ送られ、蝦夷は敗北を悟り屋敷に火をつけて自害した。並ぶ者のいない権力者を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足は、大化の改新と言われる改革を進めていく。
奈良県明日香村の飛鳥寺の近くにある蘇我入鹿の首塚は、斬られた入鹿の首が辺りを飛んでまわっていたので僧が供養し、埋めた場所と言われている。
飛鳥時代の悪役として書かれている蝦夷と入鹿だが、地元の伝承や日本書紀、その他の書物を読むと蘇我氏こそが真の改革者だったのではないかと思えてくる。蘇我氏の手柄は中大兄皇子と中臣鎌足・のちの藤原氏に奪われたのではないかと。
奈良県橿原や明日香村には蘇我氏の伝承が数多く残っている。引き続き蘇我氏について探っていきたいと思う。