
奈良県明日香村、欽明天皇陵の隣にある吉備姫王墓。王墓の上に置かれた四つの石像が猿石と呼ばれているものだ。だが、猿と思ってみれば猿に見えるものもあるが、そうと知らない人が見たら猿には絶対に見えないだろう。
何のためにこんなものを作った飛鳥人?


猿石は江戸時代に近くの水田から掘り出されたものらしいが由来は伝わっていない。古事記・日本書紀の欽明天皇紀を読んでもそれらしいことは書いていない。
古事記は宮の名前と場所、妻子の名前ぐらいしか記述がない。
日本書紀では古事記より多くのことが書かれており、朝鮮半島とのかかわりと、仏教伝来が書かれている。
しかし、どこを読んでも猿石を示すようなことは書いていない。何か隠された理由があるのか?田んぼと歴史に埋まってしまった猿石の謎を探っていこうと思う。
筑紫国造磐井と継体天皇
欽明天皇の父である継体天皇の時代、筑紫国造磐井の乱がおきた(古事記には筑紫君の乱とある)。
当時の朝鮮半島は高麗・百済・新羅・任那と大きく四つの国と地域に分けられていた。日本は百済と任那と仲が良く、新羅と仲が悪かった。
継体天皇21年(西暦527年)、天皇は新羅の百済や任那に対する乱暴を抑えるために兵六万人を派遣した。大和の動きを察知した新羅は、謀反の機会をうかがっていた磐井に賄賂を贈って決起を促した。
大和と筑紫の戦いは一年以上続いたが、大和の大将軍・物部麁鹿火(モノノベノアラカイ)が磐井を斬ることで反乱は鎮圧された。
戦後の筑紫

磐井の息子・葛子は父の罪に連座して誅されることを恐れて糟屋の屯倉(福岡県糟屋郡)を献上して死罪を免れようとした。
風土記では日本書紀とは違った話が載せられている
筑後国逸文・磐井君の条によると、磐井は生前に墓を作り、墓の周りに石で作った人や動物、武器等を置いた。墓の横に別の区画があり、裁判官と裸で大地に伏している盗人、盗まれた猪が四頭。裁判の様子が石で作られていた。大和は磐井を追い詰めたが捕らえることができず、磐井は豊前国(大分県)へ逃げた。逃した兵士は怒りが収まらず、墓の石を壊した。すると、筑紫の村に重い病気が蔓延した。
猿石と磐井
改めて猿石を見ると、四体の石像は体の前で手を組んでごますりの様な揉み手をしている。顔にはこびへつらうような笑顔を浮かべるものや、裸のものもいる。
猿石とは継体天皇が戦勝記念に作らせた敗北者たちの姿ではないだろうか。埴輪の大和に対して石像の筑紫、誇りを持っていた文化でこのような物を作らされた筑紫人は悔しかっただっただろう。
欽明天皇の願い


欽明天皇は上手くいかない朝鮮半島との争いを悩み、偉大な父の戦勝記念に祈りを捧げたのではないか?しかし、結果は上手くいかず「こんなもの縁起が悪い。捨ててこい」となった。
磐井の乱の後、筑紫人は屈辱の石像を作らされ、朝鮮半島の戦の最前線に送り込まれることになる。戦で活躍した弓の名人・筑紫国造と名があるが、磐井の息子・葛子か磐井の一族だろう。
猿石が何のために、誰が作ったのかはタイムマシンで過去にいかなければ分からない。しかし、石の文化を持った人たちのために手を合わせてみるのもいいだろう。