藤ノ木古墳

藤ノ木古墳は奈良県斑鳩町にある6世紀後半に造られた直径約50m、高さ約9mの円墳だ。円墳としては大きな部類になる古墳は聖徳太子が作ったと言われる法隆寺の近くにある。
古墳の中は江戸時代ごろまで祭祀が行われていた様子が残っており、近隣の住民が墓守として盗掘を防いでいたため貴重な品々が残っていた。
石棺の中には二人分の骨が残されており、一人は成人男性で間違いなく、もう一人も成人男性だろうと言われている。
では、この古墳に葬られた男は誰なのか?古墳近くにある斑鳩町文化財活用センターで面白い話を聞くことができた。

斑鳩町文化財活用センターでの出会い

斑鳩町文化財活用センターには藤ノ木古墳で見つかった品のレプリカが展示されている(本物は奈良県橿原市の橿原考古学研究所付属博物館・通称「かしこうけん」にある)
展示物はレプリカだがセンターにいたガイドさんの知識や熱量は本物だった。
展示物を見ていると「気になることはありませんか?」と声をかけてくれて、お言葉に甘えて多くの質問をぶつけてみたが、そのどれもに快く答えてくれた。
「斑鳩」というなじみのない名前の由来を聞くとイカルという鳥がいて、その辺で見ることができるという情報は現地に言ったから得ることができたものだろう。
他にも多くの興味深いことを教えてくれたが、特に驚かされたのが藤ノ木古墳に葬られていたのが「崇峻天皇」という話だった。

日本史上唯一臣下に殺された天皇

崇峻天皇は蘇我馬子に命じられた東漢直駒に暗殺された。暗殺後、駒は崇峻天皇の妻(馬子の娘)を奪って自らの妻としていたことが馬子にばれて、馬子から殺された。(証拠隠滅のためと思われるが暗殺事件の裏側は何故かしっかりと日本書紀にある)
空位になった帝位には馬子の姪である額田部皇女が就き、日本初の女帝・推古天皇となった。推古天皇と崇峻天皇は腹違いの姉弟である。父は欽明天皇で母は蘇我稲目の姉妹だ。
仏教に深く帰依していた聖徳太子にとっては叔父と叔母に当たる。崇峻天皇と聖徳太子の母は同母である。
暗殺事件は蘇我氏が権力を握るために起こしたかのように書かれているが、藤ノ木古墳に崇峻天皇が葬られていて、すぐ近くに法隆寺があるとなると話は違ってくるのではないだろうか。

鎮魂のために建てられた法隆寺

法隆寺には多くの謎が残されている。特に話題に上がるのが秘仏とされていた救世観音ではないだろうか。明治政府の命によって暴かれた秘仏は聖徳太子をモデルにしたと言われている。秘仏の後頭部に光輪の杭が撃ち込まれているために聖徳太子の怨霊を封じ込めるために作られたとの説があるが本当にそうだろうか?
怨霊とは恨みを晴らすことができずに死んだ人がなるものだが、聖徳太子が恨みを持って死んでいったとは書物にはない。
ならば、法隆寺とは暗殺された叔父の怨霊を封じ込めるために建てられたのではないか。さらに言うと鎮魂を願い出たのは甥の聖徳太子だが、資金と人員を送ったのは蘇我馬子だろう。馬子こそが誰よりも崇峻天皇の怨霊を恐れたはずなのだから。

ここまで書いて一つ閃いたのだが、葬られたもう一人とは聖徳太子と言うことはないだろうか?聖人と称えられるほどの聖徳太子が共に眠ることで鎮魂の儀式が完成した。
聖と邪をぶつける、または同じところに置くことで力を打ち消し合うという事例・儀式をほかに見つけることができればこの荒唐無稽な思い付きに説得力を生むことができるのだが、未熟者の頭の中にはない。避ければだれか教えてくれないだろうか。

投稿者

よし

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