桜井市と宇陀市の鳥見山


日本書紀によると神武天皇は、大和のナガスネヒコを倒して日本を平定したとある。
神武の東征と言われるものだ。
戦いの論功行賞が終わり、神武は戦いに勝てたのは先祖である天神たちのおかげだとして、鳥見山に天神たちを祀る場を作った。その場を上小野の榛原(ハリハラ)・下小野の榛原と名付けたとある。
二つの鳥見山




鳥見山と検索すると一番上に出てくるのは宇陀と桜井の境に位置する榛原の鳥見山が出てくるが、桜井市の外山(トビ)にも鳥見山がある。どちらも同じ伝承がある。
江戸時代の国学者・本居宣長は「本来、鳥見山は外山だが、鳥見という地域は広く榛原まで含まれていた」と考えたようだ。
どちらが相応しい鳥見山か?
今回、どちらが伝承の鳥見山に相応しいのか二つの鳥見山に登ってみた。
二つの山に登って考えたことが以下のことだ。
桜井の外山の鳥見山が相応しい理由
理由1
神武は九州の鹿児島の狭野という地で生まれたとある(狭野という地名は今でもあり神武生誕地の伝承もある)。
神武は奈良の橿原宮で即位をした。当然、住んだのも橿原だろう。奈良の橿原から鹿児島までは気軽に墓参りに行ける距離ではない。ならば、先祖を祀る場を近くの聖地に造ったのではないだろうか?
桜井の外山は橿原からはすぐだが、宇陀の榛原は山を越える必要があり大変だったはずだ。
理由2
東征の間、自分を見守ってくれていた天神を近くで祀っていたい、というのも人として当然の気持ちだとも思う。
宇陀の榛原の鳥見山が相応しい理由
理由1
なによりも「榛原」という地名。
理由2
宇陀には東征の伝承が数多く残っている。
ナガスネヒコとの決戦前に神武は先祖の天神に勝利を祈ったことだろう。見事勝利を得た後で、天神を祀る場を宇陀に造るのは当然のことだ。
どちらも鳥見山だ
二つの鳥見山に登って出した答えはどちらも伝承の鳥見山に相応しい、ということだった。
ならば、どちらも鳥見山なのではないか?
日本書紀にも「その場を上小野の榛原・下小野の榛原と名付けた」とある。つまり、鳥見山は二つあったのだ。
橿原の都から近い外山の鳥見山が上小野の榛原で、遠い宇陀の榛原の鳥見山が下小野の榛原なのではないか?
「榛」という字も、樹のハシバミ、ハンノキという意味の他に、草木が群がり生えていること・やぶ・草むらという意味があるようだ。榛原とは祀りの場に草木が勢い良く生えている、生命力に満ちた場所という意味で名付けたのではないだろうか?
伊勢神宮の内宮と下宮のように、鳥見山も二つで一つの祀りの場だったかもしれない。
一つではなく二つでもいい。今回この答えを出せたのは自分の中で大きな前進だと思う。なぜなら二つあってもいいのならば、邪馬台国論争に終止符を打てるかもしれないからだ。
邪馬台国大和説と九州説は個人的に大きな問題だが、どちらか一つだけに邪馬台国があったと考えを限定することなく二つでもいいと考えれば、謎は解けるかもしれない。
二つの鳥見山に登って、天啓を得ることができた。
三月初旬の冷たい風に吹かれながらの登山で得るものがあって本当に良かった。