地元びいきの九州説
邪馬台国の候補地として大きく九州説と大和説の二つがあり、奈良県桜井市の纏向遺跡の発見のせいで大和説の方が優勢となっているようだが、九州福岡県出身としては九州説を推したい。そこで、邪馬台国=九州といえるような説を考えて行こうと思う。証拠は一つだけではないし、これからも見つかっていくだろうから、今回のは思い付きを形にしてみたぐらいのものだ。
大和の王・ナガスネヒコ
神武の東征の最大の障壁として書かれている大和の王ナガスネヒコ。一度は神武に勝ち、神武を大和から追い払うことに成功したが最後は味方に裏切られて殺されている。裏切られた理由は、頑迷で聞き分けのなく分別のつかない愚か者だったからと、ひどい言われようだ。
最後はともかく、ナガスネヒコは大和に強大な勢力があったことを表しているのだろう。軍勢がぶつかり合ったような描写もここぐらいしかない。ほかの地方ではだまし討ちに近い戦いばかりだ。
ただ、気になるのは古代日本には大和以外にも強大な勢力はあった。北部九州・出雲・吉備・紀伊・尾張・北陸地方などなど村から発展して国と呼べるものが多数あった。その中で神武の東征ルートと重なる北部九州とは争ったとは書かれていない。むしろ歓迎されている。なぜか?それは神武が邪馬台国の人間だったからだ。
邪馬台国連合の王・神武
邪馬台国の女王ヒミコは各地の王から擁立されたとあるから、邪馬台国とは連合国だったはずだ。呪力とカリスマを兼ね備えていたヒミコが生きているうちは連合のまとまりも良かったが、ヒミコの死後乱世になり連合のつながりは弱まった。争いはヒミコの宗女(一族か?)を女王とすることで治まりはしたが、邪馬台国にかつての勢いは無くなった。連合国の王の一人であった神武は、指導者を失い戦乱で荒れた大地を捨てて新天地を求めたのではないか。だからこそ神武の東征で九州での妨害や争いがないのだろう。
神武の大和までの道のりは順調だっただろう。かつての勢いは無くなったとはいえ邪馬台国の威光は交易などを通じて瀬戸内海まで届いていたはずだ。邪馬台国連合の王・神武は敵なしの行進を続けたが大和では勝手が違った。ナガスネヒコは弱った邪馬台国にとって代わろうとしたのではないか。狙いは中国・朝鮮との直接の交易だ。
ナガスネヒコの激しい抵抗にあった神武は、ナガスネヒコの側近を取り込むことにした。
神武は言った、「私たちは長く中国・朝鮮(当時はこの名ではないが)と交易をしてノウハウがあるが、ナガスネヒコはどうだ?私の話も聞かずに襲い掛かるようなものが、うまくできるとは思えないなぁ」と。
側近は言った、「確かに。わが王は人の話を聞かない。あなたの言う通りかもしれない」と。
側近にナガスネヒコを裏切らせることに成功した神武は大和の王になった。
神武の東征に書かれていないからこそ邪馬台国は九州にあった。言いたいことはこれだけだ。
邪馬台国論争はヒミコの墓が見つかるまで答えは出ないと言われているが、荒唐無稽な思い付きでもいいからありったけの邪馬台国九州説をうちだして周りの人から九州説に一票を投じてもらえるよう頑張りたい。